あけましておめでとうございます。

2010.01.04 - 19:44

昨年この場にお邪魔した際には、ちょっとばかり勿体ぶって中途半端に名前を伏せていましたが、増田勇一といいます。今回の本ではhideさんに所縁深い人たちの取材のほか、彼の愛した音楽に関する原稿なども書かせていただきました。

正直に告白してしまうと、彼に初めて会ったときのことはよく憶えていません。ちゃんと会話をするようになったのはXへの加入後だと思いますが、それ以前にも何度となく接近遭遇をしていたはず。なにしろ当時は、週に3度くらいは目黒・鹿鳴館に通い詰めていたので。

その頃の僕は、ヘヴィ・メタル専門誌『BURRN!』の編集部に籍を置いていて、国内バンドのニュースなどをすべて担当していたので、今や大御所クラスになっている人たちから「すみません。来月号にライヴ・スケジュールを載せて欲しいんですけど」的な電話を毎日のようにもらっていました。パソコンどころかFAXすら普及していなかった時代だから、連絡手段は電話か手紙か直接会いに来るか。いかつい音を出すバンドのメンバーが「前略。すっかり春めいてまいりましたが、貴誌におきましては〜」なんて書面を送ってくることもありました。もちろん礼儀知らずの乱暴者もいなくはなかったけども。

80年代後半には、国内バンドのみを扱う『BURRN! JAPAN』という増刊号も作っていたので、いわゆるジャパメタ界隈の人たちとはかなり濃い付き合いをしていました。が、その後、シーンの多様化とともに、『BURRN!』自体のスタンスとして国内バンドをあまり積極的には扱わないようになり、しかも1992年になると僕自身が『MUSIC LIFE』誌に編集長として異動することになったため、『BURRN!JAPAN』自体も自然消滅的に終了。僕個人にも国内のミュージシャンと接する機会がほとんどなくなっていました。今となっては休刊からすでに久しい『MUSIC LIFE』は、実は戦前から存在していた日本最古クラスの音楽誌で、いわゆる洋楽全般を取材対象とするものだったので、正直なところ、邦楽に目を向けている余裕がほぼ皆無だったわけです。

が、実はその『MUSIC LIFE』編集長時代に、彼と再会する機会が到来したんです。しかも取材名目で。一応は洋楽専門でありつつも、いくつか例外的に掲載されていた日本人アーティストがいて、そのひとつが、当時から海外でも高く評価されていた少年ナイフでした。で、その少年ナイフと彼の対談を是非、とレコード会社(ユニバーサル:当時、双方はレーベル・メイトでした)から打診があり、それを僕は喜んで引き受けたというわけです。

取材当日、「どうやら対談の司会進行役は編集長が務めるらしい」と聞いていたらしいhideは、やや緊張気味でした。彼は僕がそんな立場に移動していた事実を知らずにいたし、「きっと洋楽偏重型の、めんどくさそうなオッサンが来るんだろうな」と思っていたのでしょう。僕自身が遠い昔にそうだったのと同じように、彼自身も中学/高校時代には『MUSIC LIFE』を読みあさり、その誌面を通じてKISSとかQUEEN、JAPANを知ることになったはず。そんな雑誌の編集長がわざわざやって来るとなれば、カタくなっても当然でしょう。僕が取材用の応接室に入ったときも、彼は帽子を目深にかぶり、サングラスをかけたまま。しかし次の瞬間、こんな言葉が聞こえてきたのを憶えています。

「なーんだ。増田さんだったんだ」

「なーんだ」はねえだろう、という気もしますが、その顔には「緊張して損した!」と書いてあった気がします。以降は、少年ナイフのお姉さま方とともに約1時間にわたって和やかなお喋りが繰り広げられ、その際の記事は同誌の1997年11月号(表紙はMETALLICAのジェイムズ・ヘットフィールドとMEGADETHのデイヴ・ムステイン)に掲載されているので、興味のある人は古本屋でも探してみてください。

その取材のなかでも彼が口にしていたのが「自分のファンにとっての“隣の兄ちゃんのレコード棚”でありたい」という言葉。そんな発言が耳に飛び込んできてから12年以上を経て、まさにそのレコード棚を解剖するかのような記事を今回の本のために作ることができたのは、僕自身にとってもとても光栄なことでした。大袈裟に聞こえるかもしれないけども、なんだか小さな約束をひとつ、ようやく果たせたような気がします。実は他にも彼とは漠然と約束していたことがあったんだけども、それについては、また改めて。

2010年1月3日 増田勇一