2009.06.19 - 02:46
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Meika/2009.06.23 - 01:41 ×
これはあたしも結構考えました。自分に何ができるかとかではなく、どの案なんだろうかと。
どこかの記事で、この国は脳死に対しての死亡宣告がないゆえに、家族がそれをしなければならないと。家族自ら、死亡宣告するか医師という立場の人が宣告するかどちらも辛いけれど、医学を有する人からの宣告の方が区切りがつくと。結局のところどの案も100%納得できるものではないのかなと。個人的な観点から、救える命が少しでも増えればなと願うのみです。変なコメですいません。意外と皆、この話題に触れないので。
梛毅 -Nagi-/2009.06.25 - 01:41 ×
それは逆だと思うなー、私は。
私が医療者側だからかもしれないけど。
自分や家族の死のラインを、自分の意思で考えていないから、
不満や不審が残ってしまうんだと思う。
死ぬっていう想定なく生きてるから、
死んじゃった…って感覚がうまれるんだろうし。
生と死はデジタルみたく切りかわるものではなくて
だんだんに移行していくもの。
成人の場合(小児は微妙)、
脳死から心臓死までは、がんばっても数週間が普通。
法律がすることは、誰もが納得できる案をつくる
ことじゃない(そんなことは不可能)。
なのに、誰もが納得できる案を模索しているから、
それは違うって、私は言いたい。
いま求められてるのは、
自分の死というラインをどこで引くか決める権利を、
生きている個人個人に取り戻すことだと思ってる。
いまは医療へ全権委任した状態だから。
死に抗うことが、生きることではないもの。
いつか必ず全員 死ぬのだし。
いつか年をとって死ぬときに、
自分の死くらい自分で決めたいと思わない?
年齢にもよるだろうけれど、
このっくらいの状態になっちゃったら、
もうがんばらないで死んでいいや…的な。
自分の "それ" くらい、想定しておきたいし、
そしてその個人的な決定を、この社会に尊重して
ほしいと思う。
すっごい関係ないけど、
某バンドWが解散前ツアーのタイトルを
『いつか死ぬ僕たちは……』
と銘うったとき、ちょっと感動したんだよね。
その前提なしには、誰もホントには生きられないと思うから。