たまには真面目に……

2009.06.19 - 02:46

今日、衆院を通過した法案に関してのもろもろ。
バンギャだけやって生きてるワケじゃないし…。

つーかね、有権者という立場にある全員が、
昨日のカレーが超不味かったっつーブログの翌日に
今日の政治を語れるのが、成熟した民主主義というものでしょ?



参照記事

正直、A案通過は意外でした。
すべてが過半数に達せずに総倒れという、もっとも不毛な
結果を、あたりまえのように予想してましたから。
もしかしたら、私が思うよりもこの国はマトモなのかもね。

ただね、議論の方向が違う気は、今回もした。
だって、死生観というものは、経験や価値観を基盤とした
非常に個人的なものであるはずだよ。
家族の間でだって、"一致した見解" はなかなかないと思う。

それなのに『脳死を一般的にひとの死とする国民的合意』の有無を
議論しようとする社説やコラムの多いこと多いこと。

そんなものにコンセンサスが存在するとは思われない。
安楽死を法的に認めているオランダにおいて、
オランダ世論の6-7割が安楽死に反対しているという現実を鑑みても。

あの国の安楽死法を支えているのは、自分は安楽死というものに
反対するけれども、安楽死を希望するひとには、法的な規制を
かけた上で、その個人の希望を尊重しますよ…という個人主義だ。


脳死を容認して移植を受けて生きたい…という他人やその家族。
脳死を容認してドナーになってもいいよ…という他人やその家族。
そういうひと達に対して、私たちがつくる社会はどうあるべきか?
ということこそ、本当に議論すべきだと思う。
脳死を容認する個人的な死生観に、社会がどう干渉すべきか?
または干渉しないべきか? を。

たとえ自分が、自分や家族の脳死を認めないとしても、
そこは個人の自由で。一筆 書いておけばいいだけのこと。


現状の医学に、"脳を蘇生できない状態=脳死" が存在することに、
疑問を差し挟むひとは、そう多くないと思う。
これは、この国特有の宗教色の薄さで。悪いことじゃない。

1番脆いといってもいい脳という臓器が、身体の他の部位より先に
ポシャってしまう現実は、医療現場にいればいくらもある。
たとえ厳密な脳死でなくとも、あーぁ、脳だけ帰って来ねぇや…的な
嘆きや落胆は、残念ながら間々ある。


そして臓器移植という医療を受け入れる気も、意外と皆あるんでしょ?
こんだけ海外移植のための募金が盛況なワケだし。

私はここで唖然とするけど。だってそうでしょ?
移植実施国の脳死判定や移植に関わる医療資本/社会資本を
それを支えていない外国人が消費することや、同じ臓器を
順番待ちしている相手国の患者の存在を、どう考えてるの?

移植臓器が不足していない国なんてない。日本の子供が渡航して
移植を受ければ、その次で順番待ちしている移植実施国の子供が
待たされる。次のドナーが出るまでの時間は、予測不可能。
間に合わなければ、その国の子が死ぬのだ。

移植の自国内完結を促したWHO勧告がもつ本来の趣旨は、
臓器売買を禁止することなワケだしね。
(売買といえば、子供の骨標本の7-8割はインド産。
そうそう都合よい年齢で死ぬものなのかねー?)


脳死という状態がある → 脳死移植という医療を受け入れる → で?



けど増えねぇんだろーなぁ、ドナー。
自分が病気になったら臓器ほしいけど、自分の身内からあげんのは
ヤダっつー未熟な矛盾に充ちてるからなー、この国は。

ただ、この国特有の無関心さは、使い用によってはけっこう便利。
実際、両親が臓器提供に同意した子供の脳死判定および臓器提供を
容認する世論は7割近いらしい。
成熟した個人主義じゃなく、未熟な無関心の結果ってのがナンですが、
結果おーらい………か?

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コメント

Meika/2009.06.23 - 01:41 ×

これはあたしも結構考えました。自分に何ができるかとかではなく、どの案なんだろうかと。
どこかの記事で、この国は脳死に対しての死亡宣告がないゆえに、家族がそれをしなければならないと。家族自ら、死亡宣告するか医師という立場の人が宣告するかどちらも辛いけれど、医学を有する人からの宣告の方が区切りがつくと。結局のところどの案も100%納得できるものではないのかなと。個人的な観点から、救える命が少しでも増えればなと願うのみです。変なコメですいません。意外と皆、この話題に触れないので。

梛毅 -Nagi-/2009.06.25 - 01:41 ×

それは逆だと思うなー、私は。
私が医療者側だからかもしれないけど。

自分や家族の死のラインを、自分の意思で考えていないから、
不満や不審が残ってしまうんだと思う。
死ぬっていう想定なく生きてるから、
死んじゃった…って感覚がうまれるんだろうし。

生と死はデジタルみたく切りかわるものではなくて
だんだんに移行していくもの。
成人の場合(小児は微妙)、
脳死から心臓死までは、がんばっても数週間が普通。


法律がすることは、誰もが納得できる案をつくる
ことじゃない(そんなことは不可能)。
なのに、誰もが納得できる案を模索しているから、
それは違うって、私は言いたい。

いま求められてるのは、
自分の死というラインをどこで引くか決める権利を、
生きている個人個人に取り戻すことだと思ってる。
いまは医療へ全権委任した状態だから。


死に抗うことが、生きることではないもの。
いつか必ず全員 死ぬのだし。

いつか年をとって死ぬときに、
自分の死くらい自分で決めたいと思わない?
年齢にもよるだろうけれど、
このっくらいの状態になっちゃったら、
もうがんばらないで死んでいいや…的な。

自分の "それ" くらい、想定しておきたいし、
そしてその個人的な決定を、この社会に尊重して
ほしいと思う。



すっごい関係ないけど、
某バンドWが解散前ツアーのタイトルを
『いつか死ぬ僕たちは……』
と銘うったとき、ちょっと感動したんだよね。
その前提なしには、誰もホントには生きられないと思うから。


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